両国散歩BLOG|歴史の街、両国を楽しむポータルサイト
> 琴剣淳弥(すもうまんが家)

琴剣淳弥(すもうまんが家)

12相撲の『す』の字も知らずに入門してしまいました。

まさに異色の方に出会いました。
力士の経験をもとにマンガえを描く「すもうまんが家」という肩書きを持つ、おそらく日本で唯一の人、琴剣淳弥さんです。
今回はご自身の思い出や、ないしょの裏話などをたっぷりうかがいました。

 −もと力士のマンガ家なんて、めずらしいですよね。もともと絵はお好きだったんですか?
「好きも何も、僕は最初からマンガ家になりたかったんですよ。子供の頃から手塚治虫さんが大好きで、いつも絵を描いていたんです」。

 −それがまた、なぜ相撲の世界へ?
「デカかったからスカウトされちゃったんですよ。オヤジがある親方と知り合いで、そのつてで、佐渡ヶ嶽親方が家に来ましてね。僕は相撲はもちろん格闘技なんてまったくやったことがなかったから、『絵が描きたいからいやです』って断ったんですよ。そしたら親方が、『世の中に絵描きは何人もいるが、相撲で強くなって絵を描けば、他の絵描きよりずっと高く売れるぞ。部屋でも絵を描いていいから、やらないか』って熱心に口説かれましてね。僕も好きにできるならいいかな、って、まだ子供ですから決めちゃったんですよ」。

 −じゃ、驚いたでしょうね、部屋に入って。
「驚いたなんてもんじゃないですよ。兄弟子は身体中アザだらけでドロドロになって稽古してるでしょ。だまされた!と思ったけど、もう遅かった(笑)」。

 −絵は描けたのですか?
「とんでもない(笑)。上下の厳しい世界ですからね、何度兄弟子に絵の道具を捨てられたかわかんないですよ。隠れて描いてましたけどね。似顔絵を描いて喜ばれるようになってから、何となく許してもらえるようになりましたが」。

 −よく耐えましたね。
「いや、じつは一度、脱走してるんですよ。忘れもしない昭和55年の大阪場所で、ちょっとしたことで兄弟子に怒られて宿舎を飛び出したんです。飛び出したはいいけど、130円しか持っていない。九州への帰り方もよくわからない。とにかく切符を買って、行けるとこまで行って、町をぶらついてたんですが、寒いし腹は減るし、近くの旅館に飛び込みました。とりあえずメシを喰って、お金のないことは明日の朝言おうと思ってたら、おかみさんが『お相撲さん、サインして』って色紙を持ってきたんです。十両以上でないとサインはできないんで、『そのかわり、マンガを描きます』って描いたら、ものすごく喜んでくれましてね。翌朝に、実はお金が…と言うと、『あんな素敵なマンガを描いてもらって、お金なんか取れないわよ』と」。

 −いい方ですね。
「今思えば、場所中に若い相撲取りがひとりで宿に来るなんて、逃げ出して来たのは見え見えだったんでしょうね。『お金はいいから、あんた、ちゃんと部屋へ帰りなさい』って言ってくれて。戻りました。こってりとしごかれましたけど(笑)」。

 −けど、違う旅館に飛び込んでたら、どうなってたかわかりませんね。
「ほんと、恩人なんですよ。以前にテレビ局の人に探してもらったんですが、もう旅館はなくて、どこにいらっしゃるのかわかりませんでした」。

 −そして11年、相撲生活を送ることができた。
「勝負には向いてなかったんですね。あと1番勝てば勝ち越しという相撲でも、相手に全勝がかかってたりすると、『いいや、負けても』と思っちゃう。幕内でも、無気力相撲なんて時々言われますが、気持ちが先に負けてることって多いと思いますよ。僕は、相撲はスポ−ツじゃないと思ってます」。

 −と、言いますと…
「単に勝った負けたじゃないんです。柔道とか剣道とかの、『道』に近い。厳しい稽古をして、心身を鍛えて、自分と戦う、というか。同じ部屋の力士たちとは、友人以上の関係になりますからね。これも大阪場所でのことでしたが、幕下の力士が場所直前に急病で亡くなったことがあって。お通夜では琴錦関とか琴の若関とか、上位の力士がだまってお棺を囲むように座りましてね。夜も更けて、親方が『お前ら明日は初日だから、寝ろ』って言っても、だれも動かない。肉親以上って言ってもいいですね。いろんなことを学びました」。

 −マンガのお話をうかがうスペ−スがなくなってしまいました。今日はありがとうございました。


2004年11月02日 午前11:15 |by PRESSMAN

トラックバック URL:




トラックバック LIST: