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藤村明光(市松人形職人)

P21_fujimura人形は、全部手で作るもの。だから自分の生まれ育ちが出ちゃうんだ。

市松人形。享保年間、当時大人気の歌舞伎役者・佐野川市松の名を付けられ、爆発的に広がった子供向けの着せ替え人形だ。昭和の初め、あの「青い目のお人形」と交換で海を渡った、いわば日本を代表するこの人形だが、伝統的製作法を受け継いでいる職人は、全国にわずか6 人ほどになってしまった。そのひとりが、本所で人形作りに打ち込む藤村明光だ。

小刀が身体の一部になって、はじめて人さまに見せられるものが作れる。

「言ってみれば、江戸の子供たちの『リカちゃん人形』だったんですよ」。ご自身は「抱き人形」と呼ぶ市松人形を、藤村さんはそう説明する。
「当時は裸のまま売られていた。女の子はこの人形に着せる服を自分で縫ったり着付けたりすることで、生活に必要な技術を学んだんだよね」。
子供用の人形とは言いながら、その製作は根気と技術を要するものだ。
「ざっと74 の工程があります。人形の芯になっているのは桐の木屑に糊をまぜて固めたもので、そこに義眼を貼り付け、貝殻の粉で作った胡粉(ごふん)という塗料を何重にも塗り重ねていく。その塗料の下から目を削り出す、これを『目切り』と言うんだけど、いちばん神経を使う工程だね。それからさらに何層か胡粉を塗り、唇や眉を描き入れ、髪の毛をかぶせる。同じように胡粉を重ね塗りした胴体に頭をつけ、人間のと同じように仕立てた着物を着せて出来上がり。着付けはウチのかみさんの担当です」。
何種類もの彫刻刀と小刀、絵筆などを操り、江戸時代そのままのやり方で作り上げていく。道具を自分の身体と同じ感覚で使いこなせるようになって、一人前。それには10 年かかるという。
「ウチも何人か弟子をとったけど、何とか一通りわかったくらいの2 〜3 年でやめちゃうんですよね。そして、『人形作家』という人になっちゃう。あっちはアートの世界だからとやかく言う気はないけど、人形を作れないで作家先生ってのもおかしなもんだよね」。


自分の髪で作ってくれって人もいる。女性と人形の関係は、わからねぇ。

今や人形職人より、作家のほうが圧倒的に多いという。
「昔、本所あたりには2 0 0 軒以上の人形屋があって、職人もたくさんいたんですよ。それが私が知ってる限りで、今は5人。いや、こないだ甥っ子が独立したから6 人しかいない。だからね、これから本気で修行する気があれば、確実に食っていけますよ。私が保証します( 笑)」。と言うのも、藤村さん自身が驚くほどに、市松人形を愛する人の数は多いのだそうだ。特に女性。子育てが終わってから人形を趣味にする女性が目立つという。
「普通は中国やインドから輸入した本物の人間の髪の毛を脱色、再染色して使っていますが、中には自分の髪の毛を送ってきて『これで作ってくれ』っていう人もいます。あるいは自分のお宮参りの時の着物、七五三の時の着物、結婚式の打ち掛けなどと、そのときどきの自分の写真を送ってきて、人形でかつての自分を作って自分史にしたいって人とかね。どうも女の人にとって、人形というのはメンタルな何かを補う大事なものらしいんだよね。男の私にはよくわからないけれど」。
そう言いながらも、たとえばご自身に子供が生まれたときなど、作る人形の表情が変わったそうだ。
「手で作るものだから、生まれ育ちが出ちゃうんですよ。同じ人形職人だったオヤジもそんなことを言ってました。後継者?
ウチの子はまだ小学生で、面白がりながら手伝ってくれているけどね、どうだか」。
そりゃ、やってくれれば嬉しいけどね、と名人は笑った。やさしい人形を生み出す、やさしい父の表情だった。

市松人形 藤村明光
墨田区本所2 ‐20 ‐9
0 3 ‐3 6 2 1 ‐0 8 3 3


2004年11月09日 午前10:44 |by PRESSMAN

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