江戸時代の庶民にとって身近な芸術品であり、情報をいち早く伝えたメディアであった浮世絵は、役者や名所、美女などさまざまな分野を題材として親しまれました。歌舞伎と並んで人気のあった相撲も例外ではなく、多くの絵師が力士の姿や取組、相撲場の風景などを描きました。
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太平洋戦争後の混乱期を経た昭和30年前後の相撲界では、蔵前国技館の開館、テレビ中継の開始、年6場所制の実施など諸制度の改革が行われました。そうした相撲界に、栃錦と若乃花(初代)が、火花を散らすような熱戦を展開した「栃若時代」が到来します。やや低迷していた相撲人気は戦前に匹敵するほど盛り上がりました。「栃若時代」を今でも懐かしく思い起こされる方がいらっしゃると思います。
体が大きく、強くてやさしい力持ちというイメージから、横綱をはじめとする力士は、さまざまな広告に登場しています。相撲と広告のかかわりは、早くも江戸時代後半からみられます。文政~天保年間(1818~1844)の歌川国芳画「風流角力数面(かずら)」は当時大流行していた美顔薬「仙女香」の宣伝用に描かれた ものです。
今から100年前の明治42年(1909)6月、両国の回向院境内に国技館が開館しました。当時、東洋一とも言われた大規模な建物は大変な評判を呼びました。そして相撲興行は屋内で行われるようになり、天候に左右されることがなくなりました。国技館の誕生は相撲界にとって大変画期的な出来事でした。
当館では、毎年多くの皆様から化粧廻し、錦絵、写真、力士や行司の作品など、相撲に関する資料をご寄贈していただいております。江戸時代から現代まで年代も多岐にわたりますが、どれも相撲の歴史と文化を後世に伝えるたいへん貴重なものばかりです。
大相撲の歴史の中で、同時に四人の横綱が登場したことが何度かありました。勢揃いする四横綱の姿は、まさに豪華絢爛。それぞれの横綱土俵入りを見比べるのも楽しさの一つであり、四横綱を中心として覇権が競い合われるのも相撲ファンの間に興味を呼び起こしました。
幕末から明治時代にかけての写真技術の伝来と発達は、各方面に大きな影響を与えました。相撲も例外ではなく、力士の姿をありのままに伝える写真は、錦絵に替わる存在となって人々に親しまれ、明治後期には多数の絵はがきが作られるようになりました。同時に日本独特の娯楽、競技である相撲は、日本を海外に紹介するための素材の一つとして盛んに撮影されました。
茨城県水戸市出身の常陸山谷右衛門は今からおよそ100年前、明治時代から大正時代にかけて活躍した第19代横綱です。第20代横綱の二代目梅ケ谷藤太郎とともに「梅・常陸」と並び称され、相撲界に一時代を築きました。常陸山が活躍した時期には、相撲を開催するための屋内施設として旧両国国技館が開館したのをはじめ、さまざまな制度改革が行われ、大相撲は新時代を迎えていました。
寛政3年(1791)6月11日、江戸城吹上御庭で、第11代将軍徳川家斉の上覧相撲が行われました。当時の相撲界は、谷風梶之助と小野川喜三郎が覇を競い合い、強豪力士の雷電為右衛門も登場し活況を呈していました。そうした折りに、幕府の最高権力者である将軍が相撲を観戦し、成功を収めたことは、相撲界にとって大きなできごとでした。将軍が観戦するに足る格式を相撲が持っていることが公に認められたからです。この上覧相撲の評判により、相撲の人気はいっそう高まりました。
明治初期は日本が近代化に向け大きく変貌を告げた時代です。錦絵の世界でも横浜絵に続き開花絵といわれる文明開化を伝える錦絵が流行します。印刷技術も木版から銅版・石判・金属平板・写真製版など大きく変化しています。